ぱぷ火🐧💚ご飯読書哲学『ぺんぎんロマンス』

霞を食べて生き延びたい『ぺんぎんロマンス』

“ぼくはオブジェになりたい”その真意はいずこ

先日【ぱぷ火vlog#2・文豪の朝食】を出しましたが、その題名にも入っている“ぼくはオブジェになりたい”という文言が動画内で触れられていないので訝しんだ方もいらっしゃったかと思います。


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文豪とは誰を指すのかを明かさずに想像していただけたらとの思いから、動画のタイトルやサムネイル画像にはあえてそれとわかる固有名を出さずに、何かその人を象徴するような言葉を入れようと考えたところ、ぱっと出てきたのがこの記事のタイトルにも入っている文言で、これは三島由紀夫氏のある随筆のタイトルであります。(私は未だ三島由紀夫氏の熱心な読者というにはほど遠いので、より氏に相応しいものがあったかもしれません。)

手元にある『三島由紀夫全集第29巻』新潮社(1980)のp.403を開きますと、三島氏が映画俳優をやるとかやらないとか書いてあり、ほんの数ページのエッセイ(初出は週刊コウロン・昭和34年12月1日)ですが、かの事件のことに思いを致しながら読むと、どきどきします。

氏はこのエッセイの中で映画俳優を“極度にオブジェである”とし、“いちばん行動らしくみえて、いちばん行動から遠いもの”としてその原理に魅力を感じた、と述べています。自分の自由意志のない俳優の演技は、“ニセモノの行動”であり、その“ニセモノの行動”に魅力を感じたがゆえに“俳優になりたい”と……

“ぼくが映画俳優になりきれば、ぼくの知らないぼくを、どこかで見られるかもしれないという期待がある。これは愉快な期待である。”

“物理学でいう反陽子の世界みたいなものに、いつも憧れていた”――というのは、いくつか別の箇所で氏のキーワードになっている「不可能」を可能にする道に繋がるということでしょうか。そうすると、氏の最後の行動の意味するところは……

ああ、考えれば考えるほどに深淵の中へ引きずり込まれてしまいます。私は文学研究者ではないので、まだまだ理路整然とは行きません。ただ一人の宇宙の中を浮遊しています。今はまだ、この浮遊を楽しんでいるところです。

・追記:気になったのは“映画界の毒”とは何であるのか?それと、氏によって語られた吉田松陰についてですが、「松陰は“オブジェ”であるのか?」という疑問が頭をもたげてきました。三島氏の文章は何度読んでも飽きませんね。

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※利用画像:林忠彦三島由紀夫